算命学には霊魂生成の原理が説かれた異気集合論という独自の霊魂観があります。
一般に言われている霊魂の考え方とは大きく異なります。
これは妄想図です。実際は人体の各部署に散在しているのかもしれません。
算命学がイメージする霊魂は、一つの塊ではなく、諸々の気が融合して一つになっている姿です。
この中には宿核として最初に設定された霊魂もあれば、生きていくうちに引き寄せた無数の気が含まれています。
算命学の霊魂は、こうした気の集合体であって、一つの塊としての霊魂イメージとは異なります。
異気集合論では魂魄という陰陽分けはされていないので、これらを「魄」としたのは想像の設定です。
当初はこの中に「魂」もあると思っていたのですが、どうやら魂(陽の霊魂)の居場所は、体内霊魂とは別で、例えば、「心の中」あたり、だろうと思うようになりました。
異気集合論では「帰るところのない原子は常に自然界の空間に、空気のようにただよっている」とされています。
逆に言うと、帰るところのある霊魂もあるってことです。
一人の人間が誕生した時に両親や祖父母などの霊魂の一部が子供の肉体に入り、子供自身の霊魂を構成するための原子となって他の原子と融合する。そのために、その子が死んで各々の原子が遊離して行く場合、遊離と同時に他の兄弟、姉妹の肉体に入り込み、そこでまた融合することもあり得ると考えているのです。
親が健在のうちに早逝した場合、宿核の一部は親元へ帰るようです。
一方で、戻れない気というのもあって、それは、身近な兄弟姉妹の中に入り込んで、融合していくこともあると書かれています。
「輪廻転生」という観点からすると、宗教やスピリチュアルでいわれているように、自分の魂が輪廻転生するということは算命学ではありません。
自然界から取り入れた五行の気は、例えば木性は樹木の中に帰るようです。
木と話ができる人とかいるのですが、人間を経て樹木に戻った木性があるってことは、そうした可能性は否定できません。
反対にどこにも戻るあてのない気(原子)は空中を漂い続け、ずっと先の人物に入り込むことがあると書かれています。
例えば、天才と呼ばれる人が亡くなったとして、その断片は今の人の中には入り切れないものだとすると、それを活かすことができる、ずっと先の、それにふさわしいと認定された人物の中に入る可能性もあるってことでしょう。
逆に、罪を犯して死刑になった人の気が、何百年後かの戦乱の時代に生まれた子供に宿ることも妄想できます。
この発想は「霊魂不滅の説」や「生まれ変わり」の考え方とは大変な違いで、算命学独自のものといえるでしょう。
異気集合論は霊魂そのものが消滅して、霊魂を構成していた原子は消滅しないのです。
また「生まれ変わり」の考え方に照らし合わせても、一人の人間の霊魂が死んで他の人間の肉体に入るわけではなく、霊魂を構成していた原子の一つが入り込むだけなのです。一個の原子だけを取り上げれば「生まれ変わり」の状態と同じですが、霊魂そのものの「生まれ変わり」ではありません。
俗に言われる霊魂の生まれ変わりと混同されることを嫌って、あえて気や魂といわずに、「原子」という単語を充当しているようにも思います。
この異気集合論が言わんとしていることは、人間は輪廻してきた自分ではないし、誰かの生まれ変わりでもないし、この世に修行の為に戻ってきたわけでもないし・・・ということで、人間は、明確な「一個の人格」を持った赤子が成長したわけではないってことです。