
肉体を成り立たせている各臓器にも五行は配当されています。というよりも、五行が臓器を作っているというべきでしょう。
それぞれは個としてあるのではなく、全体の延長(一部)としてあります。
胃袋が自己主張しようと身体から飛び出せば、それはもはや胃袋としての機能を持ちません。
肺と心臓が臓器No.1をかけて争ったとして、それが無意味なことは誰もが分かります。
でも、人間がやっていることは似たようなことではないのかなと思うのです。
人間が個人を生きるようになったところから、全体(自然)から離脱して、人間ゆえの苦しみの現実が展開するようになったのだと思えてきます。
老子 第一章
道可道 非常道 道の道とす可きは常の道に非ず。
名可名 非常名 名の名とす可きは常の名に非ず。
無名天地之始 名無きは天地の始め。
有名万物之母 名有るは万物の母。
ずっと昔昔、人間がまだ名前を持たない時代があったと思います。
男と女の違いはあったとしても、それは腎臓と心臓の違いです。
太極の世界は個別性のない始原だってことでしょう。
天地の始まりにはなかった名前(個別)です。人間が生きる目的が神を知ることだとすれば、それは名無き始原に帰るってことだと思います。
個が個を主張することが生きる意味になり、人より抜きんでることが生き甲斐になり、豊かに暮らすことが幸福になり、個(名)が際立つことへと意欲することが生きることに変わってきました。
それでも個は消えません。胃袋は自己主張しなくても、人間の一部としている限りは胃袋は穏やかにいられるでしょう。胃袋という名前は必要がなく、食べ物を消化する役割を淡々と果たすことになります。
人間が個として名を成し、裕福になりたい、幸福になりたい、成功したい、と望むことはもしかしたら、右腕が肉体から独立してひとり立ちしてやっていけると勘違いしていることと同じかもしれないと思うのです。
占いの世界もそうですよね。
昔は、個別ではなくて、だれもに共通の占いでよかったわけです。

大安吉日、一粒万倍日、天赦日、などなど誰もに共通の幸運日や要注意日があります。
個別ではない、自然の中の生き物としての人間を生きる、ここを目指して個を脱いでいくのが人生なんだろうと思います。
算命学占術は、宇宙そのものを神として受け止めるために、人間も自然界の一員であるというところから出発するわけです。
この考え方を平易に解くと、人間も他の動物も植物もすべて自然界の一事象であり、大宇宙に対してそれが小宇宙を形成しているわけです。
そこに大宇宙の中から真理を探し出せば、その真理は小宇宙の中に存在する真理と同じものであると考えるわけです。
そもそも算命学占術は大宇宙の真理を探し出すところから始まっていたのですが、時代が個の時代に移り変わるにしたがって、太極から日干を中心とした、陰占陽占という個別の占い技術に変化してきました。

占い技術的にいえば、太極での(地法)から個別を占う、陰占法+陽占法という現行の算命学へと進んでいくのでしょう。
今回のように逆行して、二十八元のない(魄のない)占いへと戻ることで人間本来の在り方、生き方に気が付くことができたとも言えます。
そしてこの逆行こそ、生きることの意味かもしれないと、確信するようになりました。
もともと、陰陽説そのもが一極を二つに分けて、その二元を極とする新たな陰陽が生じて、という世界の作られ方を示しているものですが、これも逆行することの方に意味があるように思えてきます。

算命学的に生きるといえば、相生(陰陽和合)させながら、極を逆行する事だろうと思
人生は苦労を経験しながら、極を極めていき、頂点にたどり着くゲームの如しです。
さて、「青い妄想」と題して、ここまであてもなく書き連ねてきました。
辛抱強くお読みいただいた方々には心より御礼申し上げます。
自分なりの結論にたどり着いた感はありますので、ここで一区切りします。
今回たどりついた塔崇陰陽説の太極における占い(地法)を改めて、研究してみたいと思います。
はてなブログは、勉強期間のためしばらくお休みいたします。
ある程度理解が進みましたら、ここでまた書いていこうと思います。
ありがとうございました!
*紫字は原典算命学大系からの引用です。




















