青い算命学

算命学に関する独善的ブログです。

青い妄想(最終回)・・・個から全体へ

肉体を成り立たせている各臓器にも五行は配当されています。というよりも、五行が臓器を作っているというべきでしょう。
それぞれは個としてあるのではなく、全体の延長(一部)としてあります。

胃袋が自己主張しようと身体から飛び出せば、それはもはや胃袋としての機能を持ちません。
肺と心臓が臓器No.1をかけて争ったとして、それが無意味なことは誰もが分かります。
でも、人間がやっていることは似たようなことではないのかなと思うのです。
人間が個人を生きるようになったところから、全体(自然)から離脱して、人間ゆえの苦しみの現実が展開するようになったのだと思えてきます。

老子 第一章
道可道 非常道      道の道とす可きは常の道に非ず。
名可名 非常名      名の名とす可きは常の名に非ず。
無名天地之始      名無きは天地の始め。
有名万物之母      名有るは万物の母。

ずっと昔昔、人間がまだ名前を持たない時代があったと思います。
男と女の違いはあったとしても、それは腎臓と心臓の違いです。
太極の世界は個別性のない始原だってことでしょう。

天地の始まりにはなかった名前(個別)です。人間が生きる目的が神を知ることだとすれば、それは名無き始原に帰るってことだと思います。
個が個を主張することが生きる意味になり、人より抜きんでることが生き甲斐になり、豊かに暮らすことが幸福になり、個(名)が際立つことへと意欲することが生きることに変わってきました。

ここでたびたび語ってきた人間を削ぐってことは、個を削ぐってことです。
それでも個は消えません。胃袋は自己主張しなくても、人間の一部としている限りは胃袋は穏やかにいられるでしょう。胃袋という名前は必要がなく、食べ物を消化する役割を淡々と果たすことになります。

人間が個として名を成し、裕福になりたい、幸福になりたい、成功したい、と望むことはもしかしたら、右腕が肉体から独立してひとり立ちしてやっていけると勘違いしていることと同じかもしれないと思うのです。
占いの世界もそうですよね。
昔は、個別ではなくて、だれもに共通の占いでよかったわけです。

大安吉日、一粒万倍日、天赦日、などなど誰もに共通の幸運日や要注意日があります。
個別ではない、自然の中の生き物としての人間を生きる、ここを目指して個を脱いでいくのが人生なんだろうと思います。

算命学占術は、宇宙そのものを神として受け止めるために、人間も自然界の一員であるというところから出発するわけです。
この考え方を平易に解くと、人間も他の動物も植物もすべて自然界の一事象であり、大宇宙に対してそれが小宇宙を形成しているわけです。
そこに大宇宙の中から真理を探し出せば、その真理は小宇宙の中に存在する真理と同じものであると考えるわけです。 

そもそも算命学占術は大宇宙の真理を探し出すところから始まっていたのですが、時代が個の時代に移り変わるにしたがって、太極から日干を中心とした、陰占陽占という個別の占い技術に変化してきました。

占い技術的にいえば、太極での(地法)から個別を占う、陰占法+陽占法という現行の算命学へと進んでいくのでしょう。
今回のように逆行して、二十八元のない(魄のない)占いへと戻ることで人間本来の在り方、生き方に気が付くことができたとも言えます。
そしてこの逆行こそ、生きることの意味かもしれないと、確信するようになりました。

もともと、陰陽説そのもが一極を二つに分けて、その二元を極とする新たな陰陽が生じて、という世界の作られ方を示しているものですが、これも逆行することの方に意味があるように思えてきます。

頂点の一極は太極であり、それはそのまま神の世界(自然の法則)へとつながります最下層の陰陽で現実世界が造られていると考えると、人間はどんどん神から離れた現実をつくっていることになります。
算命学的に生きるといえば、相生(陰陽和合)させながら、極を逆行する事だろうと思ます。

その間(相生のあいだ)には必ず相剋(現実の壁)があって、そこで苦労することが上に昇る必然的現実です。
人生は苦労を経験しながら、極を極めていき、頂点にたどり着くゲームの如しです。

さて、「青い妄想」と題して、ここまであてもなく書き連ねてきました。
辛抱強くお読みいただいた方々には心より御礼申し上げます。

自分なりの結論にたどり着いた感はありますので、ここで一区切りします。
今回たどりついた塔崇陰陽説の太極における占い(地法)を改めて、研究してみたいと思います。

はてなブログは、勉強期間のためしばらくお休みいたします。
ある程度理解が進みましたら、ここでまた書いていこうと思います。
ありがとうございました!

 

*紫字は原典算命学大系からの引用です。

青い妄想71・・・入れ物としての人間

今回、あれこれ考えてきた思考の軌跡は、塔崇陰陽説でみると、一階の現実部分から始まりました。
徐々に上がって、たどり着いたところが「太極」です。その上に創造の神の法則があります。
人間でいうと、天極星(死人)から徐々に天胡星天堂星を経て天将星に至り、そこから天南星天印星と降りて天報星(胎児の世界)へとたどり着く行程です。
宗教が神や仏を根源として仰ぐのは、そこに人間がたどり着くべき真理があると信じるからでしょう。

仮に、根源へ帰ることが生きる意味だとすると、人間が生きて築いてきた現実や歴史はなんなのかってことになります。
つじつまを合わせれば、現実は仮象の世界で、それを作りながら人は魂の故郷を目指している、ということになります。
「人」というのは個人でもあり、人類でもあります。

算命学占術の最大目的は、自己を知ることにあり、自己を知ろうとするために、大自然界の真理を知らなければならないという考えに帰結するのであります。
算命学占術は、諸点の事物が宇宙の範囲にあり、宇宙そのものを神として受け止めるために、人間も自然界の一員であるというところから出発するわけです。
この考え方を平易に解くと、人間も他の動物も植物もすべて自然界の一事象であり、大宇宙に対してそれが小宇宙を形成しているわけです。

このブログも、そもそもは人間とは何か、人は何のために生きているのかという濃い霧の中から出発したものでした。
僕は算命学を学びながらも、人と自然は違うという感覚をずっと持っていました。
それをむしろ肯定的にとらえて、人は自然を変えることが役割と思っていました。
でも、ここまで算命学を辿って来て、それは間違いだったと気づきました。

とはいえ、人と自然が違うことも確かで、違っていることは否定できません。
この目に貯まった鱗を落としてくれたのが「霊魂様」です。
人は自然とは違うという発想は、自分(人間)が生きているという、一見当たり前の考え方から発しています。
でも、算命学は生きているのは霊魂だといいます。人間はただの入れ物!

人間には、神(自然)から与えられた霊魂が存在しているわけです。
そこで日々の現実的な行為というものは、常にその裏側で精神的な無形を意識することによって完全なものになり得るのであります。
端的にいえば、有形のものを求めようとすれば、常に無形、あるいは無限の世界を意識しつつ行わなければならないと考える訳です。

主役が誰かを勘違いするなという警告です。
無形を意識するというのは控えめな言い方で、有形現実は自分が造っているわけではないってことです。
人間はただの入れ物で、自分が生きていると思っていた自分は自分ではなくて、霊魂だってことに気づきました。

そこから、自分の人生だと思っていた自分は、入れ物と霊魂の調整のために生まれた「心」だというところにたどり着きます。
人間世界を小宇宙だとすると、自然は大宇宙で、小宇宙は大宇宙と連動する形で連なっています。入れ子

大宇宙の中で人間の小宇宙は誕生した瞬間から始まります。それは無の中から有という時間が生まれたってことです。
それを算命学では、人間は生まれた時に、時間という財産を神から授かったという言い方をします。

人間個人に与えられた時間は財産であるがために、人生において如何ように使い果たそうとも自由でありますが、その財産は神からの遺産であり、大きくするも小さくするも本人の意志次第であります。しかし、その使い方を決定するのは霊魂であり、霊魂が心に伝達して体内に宿った時間を駆使するわけであります。

この財産を自分のものと勘違いしていたのがこれまでの僕でした。
それは親からもらった遺産をあっという間に使い果たした自分と重なります。
人生の真の主役は霊魂です。そこに気が付かないで自分が主役だと思っていると、それだけで人生は次々と苦難の日々に変わります。

算命学も、その苦難からの脱出の手掛かりと思っていましたが、それも大きな間違いで、算命学は苦難から学べという事を教えてくれました。

苦しみや悲しみが起こる理由は明らかです。
最初に思っていた通り、自然と人間は始めから違うからです。苦労する人生はそれに気づかせるためのもので、気づくことによって、人間小宇宙は大宇宙の法則へと近づくことになります。


*紫字は原典算命学大系からの引用です。

青い妄想70・・・ほんとうの心とは

左の図は、立体的だった塔崇陰陽説を平面的に書き直されたものです。
ここでは、肉体と霊魂をつないでいた「人間の心」と天地をつないでいた「宇宙の心」が省略されて、宇宙の4点の中心(太極)に「心」と刻印されています。

これまでの考え方は、人間にはもともと「心」なるものは存在せず、肉体と霊魂を調整する機器(機械)として後天的に出来上がる不確実なものでした。
図によれば、本当の心とは塔崇陰陽説における「太極」のことです。

以前観たこの図で、悲しい心が調整機としての人間世界の心です。
それが宇宙の霊魂と混然して塔崇の中心にある宇宙の心へと届きます。
これが悩ましいところで、「吾思うゆえに吾あり」の吾は、太極の心なのか・・・
悲しいと感じる心は自動的に太極の心と合流しているのか・・・

次の言葉によると、太極の心は人間の心として説かれています。
おそらく、これが正解なのでしょうが、今一つピンときません。

「塔崇陰陽説」の思考は人間の心を中心に置き、大宇宙と一体を成し、宇宙の気を感受することも出来ると同時に、人間の気を宇宙に同化させ得る機能も所有しているということになるのであります。
そのために人間の肉体と霊魂のあり方を調整して、自己の心の状態を変化させれば当然のこととして、運命そのものも変化させ得るということになるのです。
もちろんその逆もあるわけで、大自然界の事物の形と魂の受け止め方によって、自己の霊魂を変化させ得るという理論にもなるのであります。

悲しい心が宇宙の悲しい霊魂と一つになるという状態が「人間の心を中心に置き、大宇宙と一体を成し」という部分です。

これ(宇宙の心と人間の心の統合)によって人間と宇宙は一体となって、人間の気を宇宙と一体にすることができるということです。
ただ、それは自動的に太極(頂点の心)がやってくれるわけではありません。
人間の肉体と霊魂のあり方を調整して、自己の心の状態を変化させれば当然のこととして、運命そのものも変化させ得る」となります。

心の状態を変化させるってことは、次元を上げるってことで、次元が上がっていくと調整機だった心が、徐々に太極の心と一致するようになるという事かなと思います。

人間とは心なりと定義されると、心を変えれば人生は変わり、思い通りの生き方ができるように思えてきます。

でもそれは「自己の心の状態を変化させれば当然のこととして、運命そのものも変化させ得る」ということとは大きく異なります。
似たような二つの言葉にある最大の異なりは、人間の心が運命をつくっているわけではないってことです。

ここを一緒にしてしまうと、自分の心の持ち方一つで運命を変えられるような錯誤に陥ります。
そして、実際に心を変えれば現実は変わるでしょう。それを運命を変えたと勘違いすることはよくあることです。
でもそれで変化するのは、仮象の現実で、フィルムを変えれば映し出される映像が変わるのは当たり前で、一見それは自分の心が反映された現実が眼前したと思うでしょう。

問題は心がどの位置にいるかってことです。
左の図の位置でいくら心を変化させても、それは人間の法則の中で現実が変わったと思えるだけのことで、「運命」と呼べる変化ではありません。
運命とは太極から神の法則へとつながるラインで起こることと考えていいでしょう。

心を調整するというのは、目的があって、意図的にすることではなくて、そうせざるを得ないような現実に直面するってことです。
近眼になったから近視用の眼鏡をかける、乱視になったらそこで乱視を加えた眼鏡を作る。近視乱視のメガネは作りたくて作るわけではなく、作らねばならない現実が先にあるためです。

心の変化も同じように、人間の意図が先ではなく、なんらかの必然性の中で変化するのが心です。
調整)という位置づけはそのためだろうと思います。始めに心があるわけではなく、調整するために登場しています。

前にも書きましたが、心は本来「空」ということです。
生まれたての赤子がなくのは、心が泣いているわけではなく、肉体が泣いているのでしょう。
でも霊魂が備わった後に泣くのは、霊魂と肉体の調整がうまくいかないゆえに、心が泣くってことです。

調整の必要がなくなれば(高い次元になれば)人間の心は消えて、太極の心が真の心になるのかなと思います。

*紫字は原典算命学大系からの引用です。

青い妄想69・・・太極を生きるための条件

以前書いた記事です。

塔崇陰陽説で陽占を作ると、FとGの関係から生じていることになります。
塔崇陰陽説視点では通常の陽占は成り立ちません。

陰占法を論じる場合においては陽占法(霊魂の世界)で使用した陰陽説は使用出来ないのであります。そのために本書における陰占法は、図中のE点における陰陽説を使用しなければならないわけです。
陽占法と同じように、なぜF点の陰陽説を使用することが出来ないのかといいますと、F点において霊魂と肉体に分類したわけですから、もし、この段階における陰陽説を使用すれば霊魂を取り除いた肉体のみを論じ、かつ分析しなければなりません。

「もし、この段階における陰陽説を・・・」という最後の部分は、人間が太極へ帰るための方法を暗示しています。
「この段階における陰陽説を使用すれば」という前提は、実は人間はこの段階で陰陽説を使って生きているわけです。
それは人間陰陽説で語られているために成り立っています。
でも塔崇陰陽説(本来の宇宙の在り方)からみれば、霊魂を取り除いた肉体(現実)を論じ、かつ分析しなければいけないわけです。

日干(人間の心)が霊魂を星というエネルギーに変えて現実を作るという作業は塔崇陰陽説からは不可能ということで、でも人間陰陽説では当然可能だからこそ、算命学でも星で占う占術が当たり前に使われています。
これはとても重要なことです。

塔崇陰陽説は宇宙的視点でマクロコスモスとミクロコスモスの関係を解いているわけですから、神の世界を前提にしている算命学としては、人間視点だけの世界観で占いをしているわけではありません。

人間的生システムだけで生きていくことは無理という事です。心の作る人生が必ず苦になる理由は、それ(もともと無理だから)でしょう。
その無理が重なることによって、肥大する悲しみや苦しみが小宇宙から大宇宙へと居場所を変える唯一の道筋なのではないかという推論へとたどりついたわけです。

何を言いたいのかというと、かねてから仮説的に論じてきた、人間世界の仮象性は宇宙的視点からすると有効な理論かもしれないということです。

では、人間陰陽説と塔崇陰陽説の違いは?と考えると、心の有無です。
図のF点(人間の心)は人間と霊魂をつなぐ唯一の共通点です。
逆に言うと、「人間の心」がなければ、肉体と霊魂はつなぐことができず、人間は宇宙の中で成立しない(存在できない)ことになります。

でも僕たちは生きていると実感しています。これは宇宙的実感です。
じゃ、目の前の現実は・・・と考えると、これは宇宙的真実ではなく、心が作りだした仮象の世界ということに・・・なると思うのです。
これを補足するために、原典にあるちょっと大きめの図を紹介します。

この図は、「地法」の項目で出てくるものです。
わけがわからなくて、ずっと飛ばしてきたものですが、ABCの関係性こそ、宇宙の中の人間存在を解き明かすカギになるのではと思い、ぼんやりとみえてきた自分なりの結論を書いてみました(青い四角)

人間社会は置いといて、個人としての人間と霊魂の関係です。
塔崇陰陽説で設定されている肉体(個人)は生年月日(生まれた時)として与えられた個人です。
ここで「肉体(性格)」とあるのは、干支の持つ五行の本能です。
いずれ解き明かしたいとは思っていますが、地法ではこの五行の本能を人間の基本的な性格と位置付けて、宇宙的視点での占いを展開します。

地法でわかるのは、この世に生を受けた自然としての「役割」です。
この図はそれが可能であるという説明です。
これまで人生とは何かという問いで、人間世界から徐々に上がってきた論旨からすると、肉体と霊魂からは何も生まれないという事の重要性でストップします。

ここに、心(F)から創造の神のE点へと飛躍する条件があるってことです。
前回観た時は「お金が欲しければ、お金の霊魂をもとめなさい」という話にたどり着きました。
そのためにはエネルギーを燃焼しきって、空にして新しいエネルギーを呼び込むという次元と連結した結論を得ました。
燃え尽きるべきエネルギーは人間を動かしているエネルギーで、具体的には12支の中の蔵干です。

これがなくなると、太極の陰占図(生まれた時の、宿核が出来る前の赤子の人間)に還ります。
誕生日の陰占図は天の霊魂(天干)と時間(地の五行)だけで成り立っています。
これが太極で生きる姿です。
人生とは生まれた時の状態に戻ることです。

ここではそれを具体的な人生論としてとらえていきます。
その人生論が目指すのは、肉体と霊魂という本来(宇宙的な視点では)合致しない要素を結び付けている「心」を捨てるという結論へ向かうことです。

ただ、この捨てるべき心は「人間的心」です。これが最大の問題です。


*紫字は原典算命学大系からの引用です。

青い妄想68・・・太極へたどり着くための算数

算命学が生まれた時代は、自然と人間が一体でありえた時で、野に咲く花と、地を歩く牛馬と、人間と、これらは同じ素材で同じ原理で生きていると実感できた時代でした。
これがおそらく、太極を一極としていられた時代でしょう。
時代とともに、人間は人間にとってより快適な未来を目指す人間独自の時間(現実)を生み出すようになりました。自然と逆行する現実が生まれます。

これまでの流れを振り返ってみると、魄の燃焼は人間時間の中で起こっていることで、それは一プロセスで、その後の「魂」への移行が描けませんでした。
我々凡夫はまだまだ魄の燃焼の過程にいて、次元や太極というのは絵に描いた餅でしかありません。
だとしても、その尻尾が見えたことによって、算命学が常に語っている自然に生きるという事の本当の意味がチラついてきたことも確かです。

自然に生きることの意味は、東から西へ、南から北へという自然時間を生きることだと、理論的には気が付くのですが、それだけでは人間時間を捨てることはできません。
太極で生きるには、我意を消滅させて、真意を生きることしかないと思えます。

具体的には、肉体と霊魂という人間の構成を大地と天という相対するもう一つの世界と一致させることです。
心という人間的極を宇宙の心と融合させて、人間的心ではない宇宙の心で生きること、というのが太極の意味するところだろうと思います。

宇宙の心(太極)で生きる可能性を算命学では等式で解いています。
前回観たように、太極を極にすることで、abdeという4点はイコールでつながれました。どの部分も他の部分と、太極を通すことで等式が成立します。

天と地も、対応する肉体と霊魂も、太極とイコールです(上の式)。
共通の太極(C)でくくると、a+b=d+e という等式が成立します(中の式)。

ここからは算数です。
肉体(d)=天(b)+地(a)-霊魂(e)です。
言葉にすれば肉体とは霊魂を除いた天地を合体したものです。

霊魂の式も同じように成り立ちます。
霊魂(e)=天(b)+地(a)-肉体(d)です。
霊魂とは肉体を除いた天地を合体したものです。

人間[霊魂(e)+肉体(d)]=宇宙[天(b)+地(a)]
人間と宇宙は一つになります。

いずれも太極を通すことによって成り立つ算数です。
ここまでの理論が算命学的真理であるならば、生きる目的は太極を目指すことになります。といっても意欲することではなく、日常の中で。

日干が造っている現実を太極が作る現実に変える。
言葉では簡単ですが、それが簡単にできないのは、宿核を燃やすところへまずたどり着くことが大変だからでしょう。

霊魂(e)=天(b)+ 地(a)-肉体(d)
人間の霊魂は肉体(現実)を差し引けば天地と同じになります。
天地は触れない世界ですから、肉体を消すことが霊魂に立ち返ることです。
人間の肉体的な死はこの等式で、死んでも霊魂は残ります(天地に還る)

この算数はほんとに優れモノです。
人間が肉体を通して現実を生きている限り、
霊魂(e)≠ 天(b)+地(a)+肉体(d) となって等式は成立しません。
人間の世界を抜けられないってことです。

それなら、肉体(d)=天(b)+地(a)-霊魂(e)を使います。
肉体(人間存在)を天地とイコールにするためには、霊魂を消すことです。
これは理論的には肉体を消すよりは難しくはありません。
霊魂を燃やすことは星を使う事であり、日常を生きることです。

そうやって霊魂が燃焼できると・・・十二支が十二支だけ(蔵干がなくなる)というところまでいくと(十二支の霊魂がなくなると)、太極で生きることができるのです。

通常使われている陰占は、蔵干が含まれた天干と地支ですが、太極(宇宙の生まれた時ー人間の生まれた時)には、暦の干と支が使われます。
太極にある「暦上の二十八元」というのは12支の五行を示す本元だろうと思います。

太極のところにある「地法はここを使う」というのは、生れた時の自然の干支を占う技術です。
地法自体はそれほど難しい占術ではなくて、自然と人間世界との違いを見るような技術です。人間主体ではあまり使われないものですが、ここに、神が与えた役割があると書かれていますが、余程仔細にひも解かないと分からないと思います。

僕にはまだ理解できません。でも、霊魂視点でながめると、掘り出し物が見つかるかもしれないので、いずれ時間をかけて、解いてみたいとは思っています。
ようするに、太極にあるのは生まれた年月日の示す、誕生日の自然の役割という事のようです。これは人間としての役割ではありません。
山や海と同じような自然としての誕生日の役割です。

それがどういうものかは、個々の誕生日によって全く違ってくるので、それは論じられませんが、ここでは、たどり着く所(太極)にあるのは、その人の与えられた自然の姿で、そこに人間の果たすべき役割が込められているという事です。

そして、そこ(太極)にたどりつくために、次元の上昇(人間の削除)があると考えると、人生とは何かが見えてくると思います。

 

*ブログは隔日の更新です。

青い妄想67・・・宇宙と人間が一つになる

太極については、これまでにも書いたことはあったのですが、部分的な解釈でそこに至るまでのプロセスが抜けていたために、うわべだけの理解に終わっていました。
今回は下から積み上げてきたプロセスがあるので、前以上に太極の持つ意味の大きさに近づいているように思います。
BCDEの四点が一つにまとまるということは、世界(宇宙)が一つってことです。

それであれば、C点に起きる現象をE点で解釈しても、D点において解釈しても同じことになるはずであります。

言葉を変えると、現実世界(大地)で起こる出来事は肉体(陰占)からも霊魂(陽占)からも解釈できるってことです。
その前提となるのが、太極で、太極はすべての(宇宙の)始まりの極です。

人間の霊魂、肉体は、地球である大地および天空である宇宙と等しいという理論になって来るのであります。

ここから暦術や算命学の占術が可能になるという話になっていくのですが、そこは本題ではないので、人間=宇宙が成立するというところにこだわってみます。

左はもともとの塔崇陰陽説の二階の部分の図です。
ここでは、人間の肉体と宇宙の大地は同じ陰でイコールでつながっています。
これを人間界の陰陽と宇宙の陰陽を融合させて考えた時に、陰陽関係に変わるという説明がありました。
ここでは、人間界の陰陽を越えた一元宇宙に戻ったわけですから、4点は最初の図の陰陽関係に戻ります。

右の図は四つが融合するとどういう状態になるのかを、融合(乗数)理論で解いたものです。
DC=陰×陰=+ CA=陰×陽=- AB=陽×陽=+ BD=陽×陰=-
この4つがすべて融合した姿が太極です。融合は掛け算です。
+×-×+×-=+ 融合され太極はプラスで「動」的な世界です。
動は時間であり、時間は「有」(存在)です。つまり、太極は「ある」です。

人間がこの世に誕生した瞬間に、時間は始まります。人間は存在します。
宇宙が誕生した瞬間が太極ってことです。宇宙は存在します。
この「存在」が確固たる実在かどうかは別の問題で、人間が認識する範疇での存在は時間だと考えているためです。

太極は動的な世界で、動の中で宇宙と人間が一体を成していることになります。
天空と人間の霊魂および大地と肉体のグループは、それぞれに同一世界を形成し、個別に存在しながらそれぞれを共有していることになります。

この状態がどのようなことを意味するかと言いますと、中心である太極を通過あるいは介在によって大地即肉体、天空即霊魂ということになります。

膨大な話になって来ました。
別に天地創造を探求しているわけではなく、ごく普通の人間が生きる意味と目的の探究です。それがたどりついたところが「太極」という宇宙の始まりだったわけです。

これはまだ理論の段階ですから実感は程遠いところにいます。
ずっと考えてきた「人は何のために生きるのか」、「僕たちはどこからきてどこへ行くのか」、という事の答えの尻尾が見えたとすると、ここからは妄想的にイメージする必要があります。

人間誕生の瞬間は宇宙誕生の瞬間であり、人の一生は宇宙の一生なのかもしれないと。
それを知るために、人の意識は宇宙誕生の瞬間へと向かっていくのかもしれないと。

老子が示した「道」は太極のことだと考えていいでしょう。
すべての起源「名付けようのない混沌」こそ太極の姿です。

アメブロのスピ算で「次元」をやっているのですが、そこにこういう図があります。
次元が上がるプロセスの三段階です。その三段階目は泰次元と呼ばれるのですが、ここに「道」という言葉が出てきます。
泰次元が目指す世界こそ、「太極」だと考えていいように思います。

ここに初めて「道を得る」という姿があり、真の仕事の道、生きる道、親子の道、夫婦の道など、諸々の道を見つけることが出来るのであります。
このような行程を得て泰次元に到達すると、そこに努力とか頑張りとかいうのではなく、ゆっくりとした一定の速度で自然に生きていくムードを作り上げているのであります。これこそ次元である無為自然の世界」へ入っているのであります。

アメブロで書く予定ですが、次元ではたびたび「真の」「ほんとうの」という冠が登場します。
ということは次元の上がる前(通常の人間の世界)は真ではない=偽ってことです。

それぞれが歩んでいる道、属する世界、どれも次元が上がる前は本当の道ではないという事でしょう。

青い妄想66・・・悲しみが宇宙とつながる原理

悲しみや苦しみという人間にとっての負の感情は、心の中で作られます。
この心は、塔崇陰陽説図の二階の心(F点)です。
肉体と霊魂の陰陽が一致していれば、心は一極を結んで和合した世界(幸福と感じられる世界)を作ることができます。

例えば、霊魂がつながりのある異性を感知して、肉体に行動をうながしたとします。
肉体(現実)もそれに反応するのですが、それが思い通りに行かなかったとします。
世の中にはうまくいかない理由は山のようにあるものです。

それ(霊魂と現実の不一致)によって、傷ついたり苦しんだりします。
それでも、日常生活は押し寄せて来て、悲しみを隠して仕事をし、笑顔で人に会い、現実全体が心とは裏腹の世界を作るようになり、心の苦悩はますます深まるでしょう。


この理論には飛躍があって、簡単に会得できることでもなく、悲しみがE点へと止揚させるという仕上げの飛翔の理解は難しいです。
補足として次のような説明が続きます。

この考え方の背景にあるのは、すべてに神(霊魂)が宿っていて、そこには様々な気が融合されています。

人間に悲しみがあるように、樹木の霊魂の中にも喜あり悲ありなのです

悲しみに打ちひしがれた状態の時、よく目の前が真っ暗になるという表現を使いますが、現実への視野が消えた(絶望する)状態です。

現実を見失った心(現実に対して空になった心)の引力は現実ではないところから霊魂の融合を果たすようになるという事のようです。
悲しみの心は宇宙の悲しみの霊魂と呼応するという壮大な世界が動き出します。

人間の心が最大の悲しみを燃焼すると、樹木に宿る樹木の悲しみの霊魂を引き寄せることになるのです。

樹木は比喩で、樹木である必要はありません。樹木に限らず、大自然界のすべての事物に宿る悲しい霊魂が、自分(人間)の霊魂と融合するという作用が、知らないうちに起こっているということです。
悲しみだけではなく、苦しみでも喜びでも同じです。

「よろこび」の心であれば、大自然界の事物のよろこびの気を受けることになるはずであります。

ただ、喜びはラッキー(簡単に引き寄せたもの)ではなく、努力の末(エネルギーを最大燃焼した結果)得たものであるはずです。
悲しみ喜びの大きさは、そこに投入されたエネルギーの大きさに比例します。

人間は、心の中身が悲であれ喜であれ、そこが最大の燃焼を起こすときに、ある種の引力を生み出すようにできています。

それが自然界全部の霊魂と呼応するってことは、人間界を脱して、頂点Eが作る塔崇陰陽説の中で存在することになります。
次元が変化するってことは、肉体の中にある霊魂が入れ替わるってことです。
それによって現実そのものが入れ替わることになります。

仏像も作られたときには、彫刻された木片にすぎません。入れ物でありただの形です。

しかし、大自然の空間から仏の魂を呼び寄せ、形と魂を合体させる、さらにその仏像を拝むことによって人間の心が救われる、そして真の仏は仏像にあらず、仏像を通してはるか宇宙空間の一点に存在する仏を見出さなければならないのです。

人間が有形現実の中で生きている限り、「仏作って魂入れず」の例え通りの世界を生きることになります。
それは苦しみや悲しみの世界に導かれること必然で、問題は挫折体験の中で呼び込まれた霊魂に感応できるかという事です。

悲しみ体験を何度も繰り返すうちに、人間界で融合していた霊魂が、宇宙の霊魂を引き寄せるようになり、心の中の霊魂が宇宙の霊魂で満ちてくるほど、人間界でのF(心)の働きは弱くなり、宇宙的霊魂の中で心が稼働することになります。

これまで霊魂の陰陽(魄と魂)は人間に備わっているものだと思っていましたが、もしかしたら、「魂」のほうは魄のあとに宇宙から呼び込んだ宇宙的な霊魂のことかもしれないと、ここで気が付きました。
これはまだ仮説として、留めておくことにします。

形としてはFからEへの昇格ですが、頂点Eは四つの実線(人間の心の陰陽と宇宙の心の陰陽)の頂点にあるもので、その前段階として四つをつなぐ極が必要になります。
通常の極は陰陽二つからなります。この4つの点をつなぐ中心は「太極」と呼ばれる宇宙の神と同等の中心点です。


「太極」を使った占いは現在では易占だけのようです。
宇宙が「一に帰す」ことを表し、と書かれていますが、この「一」が太極のことなのですが、それは神の創造へとつながるただ一つの道です。