青い算命学

算命学に関する独善的ブログです。

スピ算人生論-自然と人間の時間は違う?!

甲 乙 丁

辰 卯 巳 という命式の気をすべて分解して、この自然五行図に配置します。

大地を意味する土性(この場合は戊)が中央にきて、現実未来には木性(甲乙)です。

現実の過去(庚)、精神の未来(丙丁)、精神の過去(癸)と振り分けられます。

人間図の場合は、現実と精神と分けて図示されます。

 

現実に注目すると、時間(矢印)は未来から過去へと流れています。甲剋→土→金。

これは東から太陽が昇り、西へ沈むという自然の時間の流れと合致します。

精神も同様に、未来から過去へと気は流れます。これも自然です。

 

この時に、日干「甲」が真ん中にこだわるのは、「今」という現実は中央だからです。

陰占的に考えると(日干も気の一つとすると)大地の上に現実が展開されます。

原始時代は人も大地の上の一員として、他の動植物と同じ時間の中にいたのでしょう。

 

それがいつの間にか、人間が自然とは別の「意志」を持つようになります。

干支ができあがったころにはもう、人が未来を目指す生き方になっていました。

自然のままに生きていれば、陽が昇り陽が沈む時間で人間もすごせたのでしょう。

 

ところが人間が中央に来て、今という現実を作るようになると、時間は逆行します。

高尾先生も「時間」はないんじゃないかというお考えを述べられています。

少なくとも、人間には人間独自の時間(未来を作ろうとする時間)があると思えます。

 

そして、時間を作っているのが日干だとすると、時間は人の数だけある?! です。

気は時間とセットにならないと、現実は生まれないので、時間はあるのでしょう。

ただ、定立的に外側にあるのではなく、算命学的には空間の動きが時間です。

 

日干が中央にきて独自の時間を作り、独自の時空間(現実)を作っていると思えます。

人間の苦難の原因は、すべてここにあるように思えるのです。

人間が中央の座から引きずり降ろさせるのは、そう遠くないようにも思えます。

 

 

 

スピ算人生論-人間が自然から遠くなる理由

王様(人間)が中央に来ることによって、気の流れががらりと変わりました。

これ以降は私見による空想的人生論です。

 

図右は、王様⇒人間⇒日干と入れ替えて、中央を「日干」とします。

王様を中心に作られた古代社会を、そのまま個人の人生へと移し替えます。

人生とは日干によって構築された、王国の姿ってことです。

 

人間界自然五行図と人間界人間五行図と、現実も精神も矢印の方向が反対です。

これまでは、中央の五行図を自然気図、右を人間気図(八門気図)とみてきました。

 

ずっとこれを見比べていて、→←が互いに正反対であることに注意が向かいました。

自然気図は肉体が横線で精神が縦線で、→←を時間と考えてみます。

日干を中心とした立体五行図(右)の→←(時間)は、心の時間の方向としました。

占術的には全く役立ちませんが、時間論、存在論としては面白い見解になりそうです。

 

本来なら、図左の木火土金水の気は中心を持たずに循環して流れます。

中央の人間界自然五行は、現実横線(肉体)と精神縦線(霊魂)の二つとしました。

通常はこの五行は人間を含まない自然五行となっていますが、それは少しおかしい。

考え方としては陰占だけの(日干も気の一つとしての)人間です。

 

中央の五行では、人間は東の木性にいると考えてみました。

木性は五行の中でも唯一生命のある気です。

空にあれば木星でこれは古代では歳星とよばれ、年を数える基準の星でした。

地にあっては樹木のことでこれもまた年輪で年を数えます。

 

人間を配置するとすれば木性しかありません。これが現実のスタート。

現実横線は肉体の歩む道です。精神縦線は霊魂の道です。

矢印を時間の推移と考えてみました。肉体時間は西(終わり)へと流れます。

人間は肉体と霊魂からつくられていて、霊魂は南から北へと縦線を動きます。

これは自然の推移とも一致しています。

 

図の右は、自然五行図の中央(地)と東(人)を入れ替えたものです。

これは陽占の世界を含み、日干(自分)が人生を作るという本来の人間の姿です。

人間が主役に変わった時の五行の図というのが一番いいように思います。

人間のトップであった王様が中央にきて、土性と入れ替わります。

たったこれだけで、縦横の気の流れはガラリと変わります。

 

これを中央の自分が作る人生とします。金→剋木→剋土と現実横線が剋線になります。

自分が主役になるだけで、人生が生きづらくなる(剋線になる)ことを示しています。

 

肉体が作る人生では、現実は東から西、精神は南から北へと自然の時間で流れます。

自分が作る人生では、現実は西から東、精神は北から南と自然の逆方向に流れます。

肉体人間時間とは、占いでは陰占のことです。日干も気の一つです。

日干時間とは、陽占のことで、日干が作る十方世界(星の世界)です。

日干(自分の心)が主役になると、時間は自然と逆行する形で流れるってことです。

一般的に「人生」という時には、右の日干が歩む道を指します。

 

陰占(左)の人生では、自然通り、始まりから終わりへと時が流れます。

陽占(右)の人生では、反対に過去から未来へ向かうのが人が生きる現実です。

人間は自然の時間に逆行する時間で生きていることになります。

 

人間の時間は自然な時間エネルギーに対して、逆行していることになります。

現代科学でも、時間が解明できないことの意味は、ここにあるのでは?と勝手な推測。

 

人間は自然とは異なる特殊な時間を生きているってことです。

時間は自然の中にあるのではなく、人間が個別に作り出しているってことでしょう。

自然をお手本に生きろといわれても、所詮それは無理な話です。

 

自然に近づくためには、人間が中心から降りなければなりません。

東のスタートから西の終わりを目指すという自然の時間で生きる。

つまり、肉体と心(霊魂)が一致すれば、人生は自然に流れていくってことです。

 

 

 

スピ算人生論-中央に来る王様が人間の起源

人間不在の平面五行と、人間が中心に来る立体五行と、この二つが重なって、暦が生まれ、それを元に人間の生活が秩序だって来て、科学や人間のための思想が生まれてきました。

 

算命学の占術部門も、この二つの五行の重ね合わせから生まれています。注目すべきは、これによって、人間独自の文化や現実が生まれてきたってことです。

 

人間が自然の一員として、自然と同じように内在する神とともに歩めた時代があったと仮定するなら、立体五行の世界(人間が中心に来る世界)から、人間は「自然」と距離ができる人生を歩み始めたといえると思います。

 

五行説は立体五行が二つに分かれて三通りあるのですが、実質は東西南北中央という平面図一つに収まっています。

 

『立体五行説が立脚しているところは人間にあるわけで、人間中心に分類された空間の分類であるのです。この場合にいうところの人間とは、支配者であると考えた方がより理解出来ると思います』<原典算命学大系第一巻>

 

何気に読んでいくと通り過ぎてしまうお言葉が原典ではあちこちにちりばめられています。古代中国では当たり前のように、王様(支配者)が神と同じと考えられていて、完璧に独裁政治が継承されてきました。

 

本来平面では北、立体ではまっすぐの天井に位置するのが神ですが、当時の皇室の家臣(南)と王の位置関係(南の頭上)から、宇宙の神とは別に、地上の神として王様が設定されています。

 

天上の二つの神を王様が代表する形になって、古代中国では、王が神でした。

日本では天皇様が神であった時代もあって、西洋でも、王政が当たり前でした。

現代でも、民主主義とはいえ、多くの国で、君主(大統領、王、首相)といった中心になる指導者のもとに社会が作られています。

 

会社でも、組織でも、家庭でもヒエラルキーはあって、その原型が中心に神と同じ権力を持った人物が配置された立体五行図に観られます。

 

算命学や四柱推命がいかに自然の法則で人間は生きるべしと唱えても、古代からの人類史は、普通の人間が神の代理に位置する形が継承されてきて、自然とはどんどん離れた人間空間を作ってきました。

 

占いが自然に還れと叫んでも、それはもはや、無理な理想論を掲げているのかなと、思うようになりました。

スピ算人生論-自然と人間と占術と

平面五行というのは、地上における自然の分類です。

古代人が自分が居る世界を見渡して、そこにある自然から5つの要素を感じ取って、それを法則的に解明したものです。

この五分類には「人間」は入っていません。

平面五行には「天(神)」も図示されていません。

これを文章にすれば、平面五行の世界(自然の世界)では、人間も自然の一員であり、神は自然そのものだった時代です。

人間の中にも神が宿り、春に花が咲き、秋に実るように、人が生きられた時代があったのだと思うのです。

 

平面五行と立体五行と占術の紐づけは原典にあったものです。

平面五行を使った四柱推命などは、自然の中に人間をおいて、算命学以上に陰占(自然の要素)と人間を比して、占いが成り立っているように思います。

人間は自然の一員ゆえに、占いで有り様がわかるってことです。

 

算命学もそうですよね。立体五行を使っていても、自然観は占いの原点になっています。位相法や守護神法や中庸を重んじる技術はまさにです。

 

 

星の呼び名は違っていますが、三柱のたて方など、四柱推命と同じです。

異なるのは「時間柱」の扱い方ですが・・・

 

算命学でも「時間」は随所に出てきますが、それは現代の時間とは違うものです。

自然から生まれた算命学という意味では、古代人には時間を単位とする感覚がなかったということです。

古代人が感知できる時間は、日が昇り陽が沈みという一日が最小単位です。

今でこそ時計がありますが、いわゆる「何時」という時間は、自然の概念にはないのだと思います。

 

平面五行と立体五行に、自然と人間という対比を重ねてみると、古代と現代の違いが浮き彫りになって来て、そこに、人間の問題が(同時に占いの問題も)、みえてくるように思います。

 

二つの五行図からわかる自然と人間の違いは、中心の有無です。人間世界を占う時には、人間が中心に来ます。

 

そして、昨日の最後にあったように、「人間とは支配者であると考えた方がより理解できる」と高尾先生は書かれています。

 

自然と人間とが乖離してきたことの、最初の原因がここにあるように思えるのです。

 

スピ算人生論-二つの五行の意味すること

五行は前にだけ一方通行で流れながら循環します。
これは時間を想起させるもので、算命学では時間があるのではなく、空間が動いているという考え方です。
動いている空間のしるしとして時間(十二支)があります。
時間については、大きなテーマになるので後述するとして、まずは、五行の概要をなぞります。

 

「相生」に対して、対照的な原理が「相剋」です。これは気の作用としてはぶつかり合い壊しあうものです。

相剋の関係は、金性が木性を傷つけるという論法なのですが、人間が生存して行くためには、先の相生理論よりも、相剋理論の方がより活用範囲が広く、人間の人為的な行動は剋作用によるものが多いことは注目すべきことです。

 

五行には自然を分類した平面五行と大地(人間)を中心に置いた立体五行と二つの五行があります。
実質はこの二つが混在した形で使われています。
というのも、立体五行には相生相剋の理論はなく、それは平面五行から移行されたものです。立体五行は中心を想定して、他の四行は中心から見た方位として位置づけられています。
東が西を剋す、というような考え方は立体五行単独からは生まれません。

 

この二つが混然一体に考えられていること、そこに占い術としての問題だけでなく、人生とは、人間とはを算命学的に考える時の不明瞭さになっているように思うのです。

 

スピ算人生論ーすべての鍵は五行にあり

五行説(五行論)というのは、理論というよりも、古代人の自然観察によって生み出された思考法です。
それはそのまま神の法則として定着しました。世界は五行で構成され五行の法則で動いています。

これは、単に古代の自然観としてとらえるものでもなく、もっと深刻に、世界は五行で作られているということに強くフォーカスするべきだったと、今頃気がつきました。
科学が、存在の元素を量子だ粒子だというのと同じことです。

古代の人々は、目に見えている現実はただそこにある世界ではなくて、それを有らしめている別の要素があることを見抜いていたってことです。

哲学を生んだ古代ギリシアでも同じような考え方があります。こうした類似は驚くべきことです。
と同時に、なんらかの真理を含んでいるという思いが沸き上がってきます。
妄想は膨らんで、世界は眼に見えている現実の裏側で、まったく違ったシステムが稼働していると思えてきます。

そのシステムが五行です。
五行は木火土金水のことですが、これは単独であるものではありません。
ここがとても大事なところです。五行というのは、五つの存在の元素というだけでなく、成り立ちの法則そのもののことです。
世界は五行の「連なり」で成り立っています。

 

五行説の相生は、存在する木、火、土、金、水の間にお互いが助け合う関係があって、ある種の循環理論が働いています。
目の前に広がっている世界は、ただそこにあるのではなく、連なりの姿です。
「相生論」は、一方にのみ順行することが特色で「金生土」「土生火」などのような逆の回り方はありません。そしてこの順行は理論的には無限に続きます。

別の見方をすると、仏教でいう「縁起」と同じような考え方で、一つ一つを切り離して論じるものではなく、例えば、木性は、連なりの五要素の一つというとらえ方をします。

それがどういう連鎖なのかはまだ未知数ですが、世界は・・・もうすこし確かな言い方をすると、自分が生きている現実は、なんらかの連鎖の上になりたっているということです。

大昔、東洋哲学の大家・鈴木由次郎教授の授業を受けたことがあって、その時に、授業の終わりに、「人生とはなんでしょう」という直球の質問をしたところ、一呼吸のあと「流れ」というお言葉をいただきました。


五行の連なりの姿は、そのまま人生の「流れ」に姿を変えているのだと思います。

 

スピ算人生論-(はじめに)

算命学には思想部門と占術部門があります。
これから書いていくスピ算人生論では、思想部門を考え出した人々の自然観宇宙観を元にして、人生とは、人間とはという基本的な問題を考えて行きます。

 

最初に留意したいことは、時代背景です。
算命学が生まれた時代は、自然と人間が一体でありえた時で、野に咲く花と、地を歩く牛馬と、人間と、これらは同じ素材で同じ原理で生きていると実感できた時代でした。

それから時が流れて、人間は徐々に自然から遠ざかります。
自然の代わりに科学が時代を作るようになり、人間は人間にとってより快適な未来を目指す人間独自の時間(現実)を生み出すようになりました。
かつて時間は太陽と同じように、東から西へと推移していったものが、西から未来へと逆行する動きになりました。
人間時間の誕生です。

人生が生き難くなったそもそもは、人間が独自の時間を持って生きるようになってからだと思います。

 

それ以前・・・自然の一員(一因)として太陽や動植物と同じ次元で生きていた時には、人間であるという意識もなかったのかもしれません。
古代人は、眼前する世界は神の意志の現れだと考えていたようです。
自然はそのまま「神」であって、眼前する世界(自然)はすべて神の姿だったわけです。
神の意志を知ることが、生きるために必要だったのでしょう。
自然の有り様を観察することが神を知ることであり、そうして見出されたのが五行論です。
神の姿を5つに分類したところから五行論が生まれ、算命学も元をたどれば、この五行論から始まっています。
五行というのは、自然界を構成する要素で、これ以外にはないと考えられていました。
世界は5つの要素で成り立っている! それが木火土金水です。