原典には「人間」を頂点にした、このような図があります。
これまでみてきた、無願への道やそのための透念気は心がコントロールする問題です。
それでは、日常、自覚している「人間」としての自分とは一体何でしょうか。
しかし、頂点になっている人間には有形無形の定義はないと説明されています。
「ここでは」の「ここ」とは、算命学が語る「小宇宙」としての人間です。
でも、原理的な意味では、ここ以外に場所はありません。それが算命学です。
人間は霊魂と肉体でできている。これが真理なら「人間」は実在ではありません。
真理でないなら算命学を語る意味はないので、算命学的には人間は実在しません。
人間とは小宇宙における極となるシンボルです。神と同じように実在しません。
実在する現実の世界では、私は人間としてではなく、個人として存在しています。
なぜ個人がさまざまな自分として存在できるのか?
これだけでも、人間が固有の実在ではないことを語れると思います。
ここで最初の図です。人間の下部構造に陰占と陽占があります。これって干支です。
そして、干支自体は定められた3柱による、時間と空間が合体したものです。
それがなぜ様々な自分を持つことができるのかといえば、陽占があるからです。
自分を含めて、現実とは日干が自分の霊魂(空間)を具現している(時間の)姿です。
これを最終的に、てっぺんの人間(心)が現実として表出します。
人間は始めに人間ありきとしてあるものではなく、人間となって行くものです。
生物学的にとらえようとしても科学的にとらえようとしても、答えはでません。
「人間がある」ことを前提とした発想からは、算命学的人間はみえてきません。
永遠の霊魂と、有限の肉体と、この二つのブレンドが人間ってことです。
固定した答えがないのは、配合は常に変わっているためです。
問われるのは人間とは何かではなく、どう生きるのかということだけです。
人間としてではなく、私はどう生きるのかが、人間とは何かの答えだと思います。