青い算命学

算命学に関する独善的ブログです。

人間vs霊魂㉒・・・感応から行動まで

感応の始まりは、南(精神の未来)です。
ここで思ったことが行動へと移って、現実が動き出します。

何気なくスマホをみていて、ふとその気になるような時があるものです。
これが感応(南の霊魂の反応)である場合、そこから情緒的反応に移ります。

感応l→拡大l→理性・知性・惰性の参加l→行動というコースをたどって現実に見える行動となるはずであります。

行動する(現実が生まれる)にはこうしたプロセスがあります。
行動自体は横線現実のエネルギーですが、実際に動かしているのは縦線精神のエネルギーです。

感応するエネルギーこそ「虚気」であるということを知らねばなりません

人間的、現実的な見地から見ると、自分の意志で決めた占い学校ですが、これが虚気であるという算命原理からすると、霊魂が実気を発揮するための前段階(これまでみてきた「有願」)によって造られている現実ってことになります。

私見ですが、この見方を無有願論や霊魂の陰陽にあてはめると、虚有願、実有願、虚魄、実魄という考え方が成り立つように思います。
もしかすると、魂や無願にも虚実があるかもしれません。結論は保留して置きます。

さて、問題はこれを自分の人生としてどう落とし込んでいくのかです。
虚気という文字面からは、どこか真実味の薄さを感じます。
しかし、算命学でも、実気にたどりついて、それを燃焼して自然に生きられる人がごくごく限られているとなっています。
仏教でもその難しさは語られています。
そう考えると、多くの人の人生は虚気の燃焼で終わるわけです。
仏教が言うように人生は仮象であるというのもうなづけます。

ただ、算命学はそれが人生なんだよと、全肯定的な見地で説いて行きます。
虚気=実気という陰陽説は、虚気は実気へ移行するためのガイド役的な意味あいだろうと想像できます。セットで切り離すことはできません。
直接有願にアプローチすることは、例えできたとしても、それはもはや人生とはよばないというのが、虚=実の等式の意味するところです。

多くの人にとって、虚気の燃焼に終始するのがデフォルトなら、虚気>実気から虚気=実気の逆転がないと、生きている意味はなくなります。
仏教が有即無、無即有と陰陽を即で結びつけるのは、そこに否定も肯定できない均一性を迷彩しているようにも思えます(仏教では違う意味があるとは思いますが・・・)。

それが一体何だろうと思うと、自分という名前を持った限定的な存在の意味は限りなく薄れて行き、人間の身体でいえば「足の爪」みたいに自分が思えてきます。
例えで意味したいことは、人間の身体とは古代より続く霊魂の一系譜ということです。自分の人生を生きていると思っている足の爪は、足の爪の役割を果たしているという事になるのかなと、妄想は走ります^^

「我」が自分で生きていると思うことからすべての問題が生じているわけですから、それをそのまま(現代という現実を)成り立たせるには、我というのは意識の幻想で、生きているのは古代より連綿とつながっている霊魂の系譜という想定です。