人間世界に対して、仏教と同じ原理から発していると思えるほど、極めて近い考え方を持ちながら、高尾先生は折に触れて、仏教と算命学の違いに言及されています。
仏教では人間世界と霊性世界とを分けて考え、霊性界へは人間世界からの命がけの飛び移りが必要と説いています。
算命学でも最終局面ではそうした場面は予想されますが、それは飛び移り的脱皮するヘビではありません。
どんなに霊性人生を歩もうとも、脱皮して殻(人間世界の現実)を捨てることはありません。
AからFへの飛躍的飛び移りではなく、現実を引き連れたそのままの次元上昇です。
現実人生の歩みが唯一それを可能にします。
算命学では、霊的世界という特別な世界があるわけではなく、同じ世界にいながら、見え方が全く変わってくるのだと思います。
いったい何が違うのか。
何倍何十倍とエネルギーの稼働が変わってくるという高い次元の世界では何が起こるのか、それが問題です。
このあたり、明解がないのがもどかしいのですが、断片的に語られている所から探るしかありません。
神の意志を如何に読みとるか、その読解力こそ人間自身に課せられた努力であり修養なのであります。
人間の努力はそれなりに立派なものですが、果たして自然界の法則にのっとった努力か、また自然の法則に反した努力であるか、努力にも諸々の姿があるわけです。
同じ努力でも天意(宇宙の真理)にかなったものであれば、神はその援助を惜しむことはないでありましょう。
原典の中にこうした一文がありました。
簡単にいうと、天意に沿った生き方をする人間には、神は最大限の援助を下さる、それが自然の法則だよという事のようです。
「援助を惜しまない」という部分が、おそらく、何十倍ものエネルギーが発揮できる、無願の世界なのだと思います。
問題は天意とはなにかということです。
これまで、仏教でも算命学でも人間の独自性が自然離れを起こしたという事は間違いないことのように思えます。
独自性とは、知性による分別を持ったことと、人間が自分の価値観で生きるようになったことです。
人間にとっては当たり前の人生が、神様からみれば、自分(自然)を離れた勝手な生き方をするようになったという事です。
その視点で見ていくと、算命学も仏教もいっていることは同じです。
人間の知性による価値観の構築と分別を捨てない限り、人生は苦しみに満ち続けていくってことです。
逆にいえば、人生の苦しみは人間自らの判断と価値観が生んでいるってことです。
古き良き時代^^では、自然が価値であり、知性でした。
いつのまにか、人間は自分を主権とするようになり、個々の価値観で生きるようになりました。
だってそのように作られているからと、ずっと思っていましたが、それは盗人猛々しいに等しく、人間が勝手に作り替えたと、仏教も算命学も語っているように思います。
ただ、算命学はだからといって単に「自然(神に)に還れ」といっているわけではありません。
おそらく、算命学と他の宗教の違いはここにあるように思います。
算命学は、自然を説きながらもいわゆる「自然な生き方」をしろといっているわけではないんですよね。
科学や政治や人間が作ってきた歴史を否定することはまったくありません。
今生きているこの世界を神様の法則で生きましょうという提案に思えるのです。
そうすると、科学は10倍進歩し、人生は100倍「面白く」・・・いや、そういう人間の価値基準では語れない(語れなくなる)「人生は100倍〇〇になる」のだと思います。
○○は我々凡夫の言葉にはなく、体験するしかない、世界です。
その方法を算命学は占いという形で示しているのだと思えてきました。