魂魄の違いを示す例が書かれています。徳と位は反対の位置にいます。
魂…感性…自分一代のもの…位…表…陽
魄…霊性…前世からの流れ…徳…裏…陰
これはずっと言い続けていますが、人間世界と霊魂の世界は反対の極にあります。
だからこそ、霊魂は人間を入れ物として、地上に現れたのだと思います。
上の例でいえば、情と知的合理性(感性)とは相反する位置に設定されています。
なぜ、神(自然の法則)を知る力を「知性」と呼ばずに「感性」と呼ぶのか?
情性に対しては知性のほうがわかりやすいと思うのですが、それを感性と呼びます。
これは人間界での知性と混同されることを恐れたのでしょう。人間の知性とは別。
人間は情の世界に入り込むと、情に流され冷静さも判断力も失うことがあります。
情の世界から神の世界をみようとしても、そこからは神の意志は読み取れません。
ただ、だからといって、知的合理性が偉いわけでも正しいわけでもありません。
陰陽は両方あってこそ存在が可能になるわけですから、どちらも必然です。
人生は霊魂が経験したい何かのためにあるとしても、位を上げることは大切です。
反対に位置する「魄」はそのためにあるといってもいいのかもしれません。
人生に挫折や悲しみや苦しみは必ずあるものです。100%といってもいいでしょう。
多くは魄ゆえのことなのでしょうが、それゆえに、位があがるという考え方です。
そこで、知的合理性が生まれないと、地位や財を得ても人間としては落第です。
魄と魂の陰陽関係は、情的な世界を魄が作ることによって、魂に目覚めるためです。
魄の世界は、概ね悲喜こもごものドラマを生み、浮き沈みの大きい人生になります。
もし、魂だけの世界だったら、淡々と自然体で生きているつまらない?人生でしょう。
情の世界の算命学的定義は、「知的合理性がまったくない世界」です。
困っている人を助け、仲間が悲しければ自分もまた悲しい心になる世界です。
人情の世界、愛情の世界こそが、魄の世界であり徳を高める世界です。
結局、人間を煮詰めていくと、陰陽二つのたましいが残ることになります。
一つは、神を知るたましい。一つは、人間的なあまりに人間的なたましい。
人間には二つの要素しかない?! 情を生きるのか、神を知るのか・・・