青い算命学

算命学に関する独善的ブログです。

スピ算人生論-検証 主星調舒星の有名人②

東京都港区赤坂生まれ。7人兄弟の末っ子で姉が5人いた。生家は祖父の代から建築設計事務所を営んでいた。三歳のころ重い喘息を患い、母の郷里である千葉県千倉町に移住。幼少期を千倉で暮らす。その頃の体験や思い出は、初期の漫画作品、エッセイ、小説など多くの作品に登場している。「千倉」は彼にとって重要なキーワードとなっており、すべての心象のルーツであるように描かれている。
日本大学藝術学部美術学科造形コースを卒業。電通にアートディレクターとして就職。その後、平凡社のADとなり、デザイナーからイラストレーターへと転向。ペンネームの「安西」は、「あ」がつく名前がいいと言われ、祖母の苗字「安西」から取った。また「水丸」は、子どもの頃から「水」という漢字が好きだったことから。当時は、『ガロ』等で多数の漫画も発表していた。

主星調舒星が目の前の現実からかけ離れた創造力を発揮して、別空間からイメージを作り出す能力という意味では、イラストレーター・安西水丸さんは千倉の海から絵描きになるためのインスピレーションを十二分に受けていたと思われます。
画集『一本の水平線―安西水丸の絵と言葉―』の中に、安西さんの原点になる、千倉の海について、次のような紹介がありました。
真っ白な紙に引かれた一本の線。イラストレータ安西水丸は、そこに愛するモチーフたちを絶妙なバランスで配置し、独自の世界を表現した絵を数多く描きました。
多感な幼少期を過ごした房総半島の南端に位置する海辺の町、千葉県千倉町。紙に引かれた一本の線は、そこから望んだ広大な水平線とつながっていました。
一本の水平線が、広大な海へと連綿とつながるように、そしてゆるやかに季節を追うように本書を編みました。

調舒星は「己」近いほうからという意味では、父母ですが、千倉の海が母の故郷で、ペンネームの由来が祖母の苗字だとすると、母系の霊魂が強いとみていいでしょう。
天干の壬丁は母系の祖父母とみてよく、己を母の父の父とみるのがいいのか・・・
霊魂には混合性があるので、両親が混在してもおかしくはなく、近いほうの正干を取るという原則に従った方がいいのかもしれません。
もうひとつ、先祖代表みたいな意味がある北干もチェック干にいれるべきか・・・もう少し様子を見ていきます。

 

亀井素一・静枝夫妻の次男として広島県比婆郡山内北村に、姉二人兄一人の末っ子として生まれる。
亀井は広島県内の私立修道中学校・高等学校に入学。高校一年生の三学期、通学定期券の購入に必要だった通学証明書の発行が有料となることに反発し、抗議活動としてビラ配りを行う。間もなくして学校側から呼び出され、教師から「ビラ配りをやめないと学校をやめさせるぞ」と脅されたため、亀井は「今すぐやめますよ」と言って高校を自主退学した。修道高校を中退後、東京大学法学部に進学していた兄の亀井郁夫を頼り上京。1956年、東京大学教養学部に入学。

亀井さんのエピソードには、調舒星=短気と加えたくなるほど、武勇伝や直情的なものいいで、問題になることが多かったです。特に正義感の強さは、霊魂的な継承を感じさせるものがあります。
高校の自主退学もそうですし、東大時代にも次のようなエピソードがあります。

在学中に、友人だった駒場自治会の委員長がアメリカ合衆国の水爆実験反対を訴えるストライキを指導したことが原因で退学処分となった。亀井はこれに憤り学校に抗議するため、駒場寮前にテントを張り、サークルの子分を引き連れてハンガー・ストライキを決行する。支援する学生からパンが投げ込まれたが、それには一切手をつけなかった。決行から1週間してドクターストップがかかったが、亀井のハンストが功を奏し、大学はその友人の退学処分を取り消した。

紹介を読む限り、血筋は亀井家なんですよね。代々武士の家系で、没落して亀井家は村でも下から数えた方が早いという貧乏育ちだったようです。
父については次のように語っています。

「祖先は戦国・室町時代の大名の筆頭家老という名門だったが、幕末に没落、家柄でメシが食えるわけではなかったからね。さつまいもとかね、いものつるも食ったよ。
おやじは正義感が強くて、戦後は引き揚げ者の世話をして、開拓事業に打ち込んだんだ。無給でね。野良仕事はすべてお袋、よくケンカしてたよ。うちも貧乏なのにって。夜なべして、炭俵を編んだり、つりしのぶっていって、炭に草なんかを差して軒先にぶらさげるのがあってね。涼しそうに見えるんだな。それをつくって、背(せな)かごに入れ、山を越え、行商していた。寝ている姿を見たことがない、本当に

正義感の強さや世話好き、無休で書いてく事業に打ち込むというあたりは、父と霊魂をそのまま受けているという気がします。
そう考えると、年干の丙が父の母のようにも見えてきます。年干も入れるべきか?・・・月支戊は父の実感の陰陽・・・生存者は偏干でも実干でとるべきか?迷います。

それから、調舒星という意味では、ルーツはわからないのですが、絵画が趣味で個展を開くほどの腕前だそうです。

 

作曲家・服部良一の長男として生まれる。幼少より音楽の英才教育を受け、国立学園小学校、成蹊中学校・高等学校を経てパリ国立高等音楽院へ留学。和声、フーガ、対位法を学んだ後、1958年卒業。帰国後すぐに戦後の復興後のテレビ放送の草創期より活動を始める。
亀井さんと同じ誕生日。こちらは、父が作曲家として名を成した名門の出身です。
亀井さんは趣味の絵画が調舒星らしかったのですが、服部さんは作曲の才能がそのまま調舒星でしょう。
服部さんの父服部良一さんは「土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。芸事好きの家族の影響で郷土の民謡である江州音頭河内音頭を子守唄代わりに育つ」とあったので、父系に音楽や芸事の才能があったと思われます。

そうなると、北干をいれると、丙と辛が祖父母となって、戊は父父母。先祖の能力までは遡れませんが、父系の霊魂を継いでいたと思われます。
調舒星の戊は父の偏干ですが、作曲は明らかに父から受け継いでいるので、生存者は実干でとるほうがいいのかもしれません。

もしかすると、亀井静香さんは政治家でなくても絵で生きられた可能性もありますが、宿命が人生を決めるのではなくて、やはり埋め込まれた霊魂がと考えたほうが、同じ誕生日問題は説得力が出てきます。

占い師は、霊魂の内容までは読む事はできないので、自信をもって占うことに、多少なりとも恐れを感じた方がいいように思えてきます。