青い算命学

算命学に関する独善的ブログです。

スピ算人生論-検証 主星調舒星の有名人③

スコットランドエディンバラで誕生。父親のレオ(1923〜2012)は弁護士・ダラム大学講師などを務め、保守党の下部機関「ダラム保守協会」の会長も務めた。ブレアは、オーストラリアのアデレードやイギリスのダラムで幼年期を過ごした。
政治家としては、前近代的・封建的な慣習や制度が残存していた貴族院世襲議員議席数の制限と最高裁判所の権能独立という二大改革を成し遂げ、近代的な権力分立制の確立を達成した。また、2000年捜査権限規定法を成立させた。
市場重視政策による経済の好調により高い支持を受け、近代英国ではサッチャー政権に次ぐ長期政権を築いた。その一方、アメリカの対テロ戦争を積極的に支持。イラク戦争への参戦は大きな非難を浴びた。

母は大学在学中に亡くなっていて、政治家になったこと、労働党を選択したことも含めて、父の影響が強かったのは間違いのないところ。

父親レオは造船所の整備工に養子として育てられ、若い頃はグラスゴー共産主義青年団の事務局長を務めるほどの左翼だった。しかし、のちに弁護士を経て活発な保守主義者に変身した。この父親の転向をみて世間一般にいう「成功=保守」というつながりを断ちたいという政治的野望を持つに至った

左から右へという父の大きな転身に対して、安直さを感じたのか、父が属した保守ではなく、労働党を政治の場にしています。労働党内保守傾向を改革し、近代政治の新しい時代を作った人です。

この図は、再点検したいと思います。
主星の調舒星は月支初元の「戊」。正干で取れば母系の祖父の影響です。母系祖母が年干という見方もできます。
ただ、ブレアさんの履歴には、母系はあまり登場してこないので・・・ネット情報ですが、父「己」の陰陽干という見方をしたくなります。
そうなると、丙は父系祖母、庚は父の母の父、となります。
調舒星についてのコメントはないのですが、先見性をもった政治理念とか、福祉を重視する労働党という意味合いもありかなと思います。音楽好きという記述もありました。

読書、サッカー観戦(ニューカッスル・ユナイテッドのサポーター)、テニス、スカッシュ、音楽鑑賞が趣味である。音楽ではザ・ダークネスのファンだと公言している。また、1997年にオアシスを首相官邸に招いたり、何度かテレビカメラの前でギターを構えたりと「ロック好き」をアピールしている

 

ニューヨーク、マンハッタンに、画家ヴァージニア・アドミラルとロバート・デ・ニーロ・シニアの一人息子として生まれた。彼の父親はアイルランドとイタリアの血を引いており、母親はオランダ、イングランド、フランス、ドイツの系統である。絵画教室で知り合った両親は、父親が自身がゲイであると明らかにしたことで、デ・ニーロが2歳の時に別れた。デ・ニーロはマンハッタンで母親に育てられた。父親も近所に住み、少年時代はデ・ニーロと親しい関係を築いた。
デ・ニーロは自身の内気さを和らげる方法として演技を見つけ、映画に魅了されるようになり、演技を追求するために16歳で高校を退学した。デ・ニーロはのちに「18歳の頃、テレビ番組を見て"この俳優たちがこれで生活しているなら、大して上手くもないし、自分もこれより悪いことはないだろう"と言った」と述懐している。

母子家庭で育ったのですが、父とも交流があって、父についての思い入れは大きかったようです。
俳優になるきっかけとして、テレビドラマを見て、ドラマよりも、自分がそこに立つこと(俳優になること)をイメージして俳優を目指すというのは、主星調舒星の他の俳優にもみられたので、別空間で思考を作る調舒星の特徴とみていいように思います。

父については、1993年に他界した父を描いたドキュメンタリー「リメンバリング・ジ・アーティスト:ロバート・デ・ニーロ=シニア」という映画を製作・監督しています。
『「おわかりの通り、野球を一緒にやるような父子ではなかったよ。でもつながりはあったんだ。父と母は離婚していたから、父と多くの時間を過ごしたわけではなかったよ。ドキュメンタリーの中でも言っているけど、父のことはある点において尊敬していたんだ。父はあまり存在感がないこともあったよ。でも父はとても愛情深くで、僕のことも子どもたちのこともとても大好きだったんだ」。
また、デ・ニーロはこのドキュメンタリーの製作が、自分が好きでやったことだとしている。「やらなきゃいけない気がしたんだ。義務のように感じたよ。父についてのドキュメンタリーを作ることは僕の責任だったんだよ。HBOで放送するためにやったことではなく、自分がただ作りたかっただけなんだ

父についてのドキュメンタリーは「義務のように感じた」「作りたかっただけ」と述懐しています。
これは霊魂的といえるでしょう。
父系とみると、正干よりも実感での月支本元が有力です。調舒星の戊は、実干は該当せず、近い正干は母の祖父です。父系なら、父の父の母が該当します。このあたり、無理に父系母系と偏ることなく、調舒星は母系の祖父でいいのかなとも思います。改めての検証は必要ですね。

 

父方の先祖は明治初期に小倉の城下町に住んでいた。桑田家は祖母の実家にあたり、祖父は満州に働きに来ていた鹿児島の農家の次男であった。満州にいた時期に離婚したことにより、祖母は父を連れて桑田家に戻り、終戦後に北九州に引き揚げて来た後に上京している。

桑田姓は父方の祖母の姓のようですね。桑田さん親思いなのですが、特に父親の影響が大きかったことはネット情報を集めるとうかがい知れます。

父は桑田と同様に歌が上手いことで有名だったことが語られており、父の真似をして歌っていたところ父から褒められたことが桑田が歌手を志すきっかけになった。
桑田は学生時代、父に教えてもらった影響からボウリングに傾倒する。プロボウラーを目指していた時期があり、マイボールを保持しアマチュア公認の試合に出場していた。

父は映画好きだった影響からしばらく日本劇場で働いていた。その縁により当時映画製作が盛んだった茅ヶ崎市に移り住み、妻(桑田の母)と出会っている。その後も湘南の

地方新聞の記者、パシフィックホテル茅ヶ崎への勤務、茅ヶ崎市の映画館や妻と二人三脚でのバー経営と数々の職業を転々とした。

茅ヶ崎は母の故郷であり、そこへ引かれるように父がやってくるという流れは、運命的な仕掛けを感じます。そして、「茅ヶ崎」は桑田さんが愛してやまない故郷で、ここからサザンの名曲の数々が生まれました。

桑田は生まれ育った茅ヶ崎市に対する誇りを持っており、2000年にサザンとして行った『茅ヶ崎ライブ』では「茅ヶ崎に生まれて良かったです!!」と感謝の言葉を述べた。2006年に『ap bank fes '06』に出演した際には「自分の中だけの原風景があるんです。それが『ふるさと』でね。僕のふるさとは茅ヶ崎なんですよ。そこの沼や池の匂い、そして街の肌触りとか、母のぬくもりがずっと心の中に残り続けていて。そういう母性や匂いを作品にしていくこととか、そういう気持ちがエコロジーなんだと思うんです」という思いを語り、実際に2007年には茅ヶ崎での少年時代の思い出を歌った「MY LITTLE HOME TOWN」が発表された。

故郷の風景が心に残って、それが大人になってからの才能の中に織り込まれていく、主星調舒星は他にも例がありました。これも調舒星の特質としたいです。

調舒星でもあり、月支本元でもある「甲」は父の実感(偏父)または母系の祖父の正干でもあります。母系祖父が父を呼び寄せたという見方なら、ロマンチックな霊魂運命物語になりそうです。
六親図の解釈については、もう少し、煮詰めてみたいと思います。試行錯誤して、申し訳ありませんm(__)m