青い算命学

算命学に関する独善的ブログです。

スピ算人生論-検証 主星鳳閣星の有名人③

東京生まれ。第二次世界大戦末期に戦災で焼け出され、12歳の時に母方の郷里を頼って千葉県に一家で移り住み育った。3人の兄と2人の姉を持つ6人兄弟姉妹の末っ子。
音楽に興味を持ったのは小学生の頃で、高木家には当時まだ珍しかった蓄音機とジャズのレコードがあり、何となくではあるがそのレコードをよく聞いていた。この頃学校やラジオで聞こえていた音楽といえば唱歌、軍歌、浪花節がほとんどで、高木にとってジャズのメロディは新鮮で刺激的に聞こえた。「身体が自然に動き出すようなウキウキした気分になったのを今でも覚えてる。ジャズのレコードが僕を音楽の道に導いてくれたのかもしれない」と回想している。
ウクレレとの出会いは、中学校3年の頃に、15歳の誕生日に3番目の兄からウクレレを贈られたことがきっかけで、ハワイアン・ミュージックに造詣を持った。
くれた理由を聞いても、「オレもなんでだかわかんない」って笑ってたな。兄貴の気まぐれのおかげで、僕は一生のパートナーと出合うことができました。

剋線ゼロで、人物では母干だけ。霊魂正干は父だけ。実干では父と兄が同宮しているので、この辺りに何か仕掛けがありそうな気がします。ウクレレをくれた兄も、理由はわからないというあたりが、霊魂っぽいでしょう^^ただ、月支をみるかぎり、父の魂を受けていると考えられます。

ネット情報ですが、兄弟の中では高木さんだけが両親との縁が強かったそうです。幼少の頃にはお父さんがチャンバラ系の映画が好きだったことから、休日のたびに両親に映画に連れて行ってもらったそうです。その頃の思い出は毎日楽しいことの連続だったと語っています。

映画(役者)がインプットされていた事例としては、『1985年9月に「全員集合」が終了し、その後はドリフとしての活動と並行して、単独での活動も開始した。ドリフのメンバーで最初に単独の仕事をしたのは高木だという。劇作家・別役実の芝居に複数出演し、将来は新劇の役者になるかと思っていたこともある』<wiki

もうひとつ、両親と三人で過ごした家族の印象が鳳閣星に刻まれていたと思われる事例では、とても奥さん想いで家庭を大事にしていたそうです。

高木は愛妻家としても有名であり、70歳と90歳の記念に出版した2冊の自伝の中でも以下の通り妻との思い出を詳細に語っている。「全員集合」終了後、「少しは家族の時間を取り戻そう」と思った。それ以降、夫婦で毎朝6時に起きてペアのトレーナーを着て、自宅から近所の江戸川公園まで散歩し、ラジオ体操をして戻ってくるのが夫婦の日課となった。散歩中は妻は夫にたわいない世間話ができることを嬉しく思い、高木は妻の話を聞くのが楽しかったとしている。それと同時に、今まで妻のこういう話を聞いてあげる時間がなかったことに改めて気づき悔やんだという。

 

中学からバレーボールを始め、八王子実践高校から筑波大学体育専門学群に進学する。1981年、日立女子バレーボール部に入部。ユニバーシアードに3度出場し、1979年には銀メダル獲得。日立、全日本代表の主軸選手として活躍し、1983年のアジア選手権で優勝。1984年、ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。

バレーではすばらしい実績を残していますが、三屋さんの生家環境では、バレーへと向かわせるものはありませんでした。両親はむしろ反対しています。
三屋さん自身は両親が認めてくれる条件の中でバレーを続けていました。

私の父には頑ななまでのポリシーがあって、まず姉には家を継がせると決めていました。それで次女の私は自動的に家を出なければいけないので、私が何か資格を取るまでは親が頑張るという考えがあったんです。ですからよく言われたのが「とにかく一人で生きていけるように何か資格を取りなさい。一番いいのは教師の資格だから、大学を出て教師の資格を取りなさい」と。
そういう考えの両親でしたので、バレーボールを続けることに対しては「勉強がおろそかになる」と、ずっと反対をされていました。中学時代は、成績が学年で20番以下になったら辞めるという約束の下でバレーボール部に入ったんです。八王子実践に入る時も、菊間崇嗣先生に「本人が希望していないのに、実業団に行かせるようなことはさせない」と一筆書いていただきました。それで、3年の時に菊間先生から「卒業後はどうするんだ?」と聞かれて、いくつか実業団からオファーをいただいてはいたのですが、私は大学進学を選択したんです。

それでも結局、分岐点では両親を説得して、オリンピックを目指す道を選択しました。
月支本元は父でいいと思うのですが、乙丁が父系と母系でわかれます。丁本人を月支に入れる時は、例えば、出戻りのように結婚して実家に帰ってきたみたいな場合は、ありえます。
そう考えると、三屋さんはここまで独身で来られている(命式に夫干なし)ので、家系の丁はご本人で乙を父系とすると、全部父系で埋まります。実際、父の影響を鳳閣星が身に着けたという感じはします。
オリンピック終了後は遠回りになりましたが、主星鳳閣星としては父がいった、「教師の資格をとれ」に従うことになります。
インタビューで次のように語っています。

―― オリンピックの1カ月後には、教員として高校の教壇に立っていましたね。
はい。オリンピック前に採用試験を受けていて、既に決まっていたんです。
―― 決断の速さに周囲も驚かれたのでは?
そうでもしないと、またバレーをやめられなくなると思ったんです。リーグ戦が終わるまでとやっていたら、おそらくそのまま「もう1年」なんて思ってしまって、結局は次のソウルオリンピックまでやっていたかもしれません。なので、「オリンピックまで」と決めて、すぐに切り替えられるように準備をしていたんです。
―― その後、大学で助教授をされた後に、筑波大学大学院に入られました。これは?
毎年、同じことを教える中で、だんだんと自分の中で知識が枯渇しているような気がしてきて、どこかで新たなものをインプットしなければいけないと思い始めたんです。これまではバレーボールプレーヤーとして得たものでやってきたけれど、そうではなくて、バレーをやめた後の自分自身を、きちんと作り出さなければいけないと思った時に、私に決定的に不足していたのが知識でした。正直、バレーボール以外のことは何も知らない状態でしたからね。それで、もう一度勉強し直したいと思って、筑波の大学院に入ったんです。
―― その後、Jリーグの理事に抜擢されるなど、活躍の場を広げていきました。
当時から私がよく言っていたのは「これからのスポーツはアスリート育成だけでなく、地域に貢献していかなければいけない」ということだったんです。これは筑波の大学院にいた時に、先生方とよく話をしていたことで「今後は少子化の時代。学校だけでスポーツをやっていこうとすると、小さくなるばかりだから、これからは地域を巻き込んでいかなければいけない」と。それまではスポーツが貢献できることと言えば、「健全な青少年の育成」が中心でしたが、これからは「中高年の健康」をテーマにしなければいけないだろうと。そうすると、やはり「地域」が大事になってくるんですね。

これまでも、河本さんのように、本業のお笑いで挫折して、次にやったことが霊魂的だったという例があるように、三屋さんもオリンピックでメダルを取ることが霊魂の望みではなく、スポーツと地域のつながりなど、スポーツに社会性を持たせることに、役割があるのではと思うのです

主星鳳閣星が父の言葉(教員になれ)を受け止めて、ずっと核にしてきた感じがします。バレーよりも教員へと気持ちが向かうのは、霊魂の示唆でしょう。
そう考えると、最初の分岐点で教員よりもバレーを選んだのは、いずれ教員(指導者)になった時に、バレーの経験が必要になるからという霊魂判断があったのかなと推測します。役割はバレー以後にあったということです。
これまでにも、バレーボール協会の理事、Jリーグの理事、バスケットボール協会の理事と、3つの異なるスポーツの理事を務めています。メダルを取ったバレーではなく、スポーツ全体と社会という位置で、霊魂の役割をとらえてみたいと思いました。

何を言いたいかというと、通常は成功した仕事や実績を残した出来事に目が行きますが、霊魂の役割というのは、そこから外れた、別の何かにあったりするのかなと、ふと思ったのです。有名人だけでなく、一般の人たちにも言えることで、意外なところに霊魂の役割ってあるのかもしれません。

 

姉のアリスが専属モデルをつとめていた雑誌である『Seventeen』のイベントに母と来場した際、アリスが所属していた現所属事務所の社長から声をかけられたことがきっかけで芸能界に入った。

もし、霊魂とか、難しいことを考えずに、「子供の頃の生家環境で親兄弟から鳳閣星が感知したものが身につく」というだけでいいなら、年支に、母と姉がいて、姉とは大半会していて、と考えれば、姉の影響で姉と同じモデル&女優になったという事実だけでも十分に検証にはなっていると思います。
でも、もう少し霊魂的な事をと思うと、調べるだけでも大変なのですが、繰り返していると、何かみえてくるものがあるように思えてきます。