青い算命学

算命学に関する独善的ブログです。

人間vs霊魂⑦・・・人間に自由はない

「吾れ思うゆえに吾れあり」の「吾」はおそらくこの「心」のことでしょう。
日干や主星は吾思わなくても吾としてありそうで、思っても自覚できないはずです。
なので、吾思うことで認識する吾は「空なる吾」で吾と限定できる実在性はもたないことになり、デカルト的西洋合理主義は東洋とは一線を画すことになります。

心(以後は、天地の中間に位置する空なる心のことです)は日干と同じ点的存在原理だと思われますが、日干が現実を作る点だとすると、心は精神を作る点です。
点とは、空間を作る最小単位、分子的なものと考えています。
これはおそらく、「存在」の最小単位であり、同時に存在そのものかもしれないという妄想もあります。これはいずれ語るとして、まずは、心です。

吾を心とすると、空の吾は常態的なものではなく、人間と霊魂を調整する時に出現する点的連続意識となりそうです。
「空」の意味は、固定してこれが心だと語れないものであり、瞬間瞬間に変化しうるもので、それは目の前の現実が・・・と語っているうちに過去になる原理と同じです。
問題は、何を調整しているのかです。

算命学では、中間の心の部分が「人間」と表記されることもあります。
暗黙に、眼に見える人間(現実)が人間ではないと語っているのでしょう。
別々に考えると、人間世界で生まれる自分の人生は、日干が魄(人間が継承している霊魂)をエネルギーにしてそれが作っている世界です。

一方で、それを調整する「心」があって、心は日干ともつながっています。
人間は自由だ、自分の人生は自分が作ると叫んで、日干が思い通りの人生を作ることはできると思います。
でもその時の自分は天とつながる心とはアクセスしないで、日干と肉体だけの世界で人生を作っていることになります。

「仏教の大意(鈴木大拙)」からの引用です。
それが無法でも幻想でも、それができるのが人間です。魂も自然の摂理もそれを止めることはしません。結果ひどい目にあったとしても、これはこれで人間特有の、ある意味、そこ(神を知る)に至るための重要なプロセスでもあります。

だとしても、こうなる(結果としてひどい目にあう)前には、自分(魄)と魂のせめぎあいがあって、心とはまさにそのせめぎあいのことです。
ここで、魂とか神とかいうと、何か絶対的な規範があって、それに反するとひどい目にあうように思えてきますが、算命学の宇宙と人間の構造をみていくと、どうも、もっと個別的なことのように思えてきます。

個人的な心の構図にも陰陽はあって、人間を陰なる小宇宙とすると、陽なる大宇宙が対比されます。
ただこれは、人間という概念ではなく、個人の話しです。一人一人がみんなそれぞれの小宇宙をもっていて、一人一人がそれに対応する大宇宙を持っています。
これは、二階建ての十二支とか、近天空、遠天空という二つの空間の設定とかに反映されているものです。算命学が立体五行を使う所以でもあります。

小宇宙と大宇宙を陰陽関係として、これが同じだという陰陽同一の意味の中に、人生を解くカギがあるように思えてきます。

 

*紫字はすべて、「原典算命学大系」からの引用です。