青い算命学

算命学に関する独善的ブログです。

人間vs霊魂⑮・・・仏教の立体五行観

魂型魄型の私見はいずれ検証するとして、「魂の世界」を仏教から探ってみたいと思います。
これは高尾先生も「仏教でいう阿弥陀様の世界、『弥陀の浄土に近いと書かれていたので、ここに無願の世界のヒントがあるかもしれません。
そうやってみていくと、『仏教の大意という本の中に、算命学と同じ考え方がありました。
図は、文意に合わせて作ったものですが、算命学の立体五行の世界です。
現実横軸は物理的、自然的となり、精神縦軸は知性的、道徳的となっています。
加えて、霊性的軸が加わるとあるので、立体五行説と同じと理解できます。
同じ原理から作られているか、算命学が仏教思想を取り入れているってことかもしれません。

算命学では、心の在り方(霊魂の軌跡)が現実を作るという考え方ですが、仏教は現実を仮象として、実像は霊性の中にあると説いています。

一般の人間は第一と第二の線に対する強い自覚を持っているが、第三線に対するものは曖昧模糊であるといってよい。しかし全然これを無視して非有とするわけには行かないのです。その結果として、人間はその生活の全部を第一線または第二線または双方にのみ委(まか)せ切ることにもなれないのです。霊性線の現前はこれを如何ともするわけにゆきません<同上>

肉体(第一線)と精神(第二線)だけでは人間は生きられない本性があるというのは、イデアの想起説と同じです。わけもなく、霊的なことに心ひかれる所以です。神社仏閣巡りが好きな人が多いのも第三線ゆえでしょう。
魂と魄の関係にあてはまるところは、理性(知性)と霊性という対比で語られています。
人間は霊性を無自覚にチラ見していながら、それと対座できない知的生活が身についていて、かといって、そこから逃れることもできない存在となっています。

知性的分別に根ざしている人間の存在は、なかなかにそううまくは行かないのです。
しかしながら霊性から知性へ加え来る圧迫は不断あるのです。これが抑えがたき力であって、知性は自分だけでは何もできないと承知するようになっても、なかなか自己の全部を放下し能わぬのです
霊性線への飛び移りは命がけの行為ですが、これをやらない限り悩みは抜けないのです。そうしてこれは飛び移りであって、 一歩一歩の連続的進み行きではありません。百尺竿頭に一歩を進めると申しますが、時間的にも空間的にも文字通りの超越です。非連続の連続といってよいのです
<同上>

これは算命学でいうところの、次元の最終段階(泰次元の入口)、最後の仕上げのところでしょうが、もっと手前でも、つまり、今こうして優れた先達の理論を追って、無願への道を模索している状態でも、起こりえることだと思います。
これによれば、無願への道は、「自己の全部を放下する」ところから始まるようです。
これはなんとなく想像できることですが、確かに、「霊性線への飛び移りは命がけの行為」に等しいのかもしれません。
想像するに「人間やめますか^^」に近い思い切りが必要なようです。

それと、放下できないのは、知性的分別ばかりではないでしょう。
もっと初期的な魄の次元でも起こりうることです。

これは我欲がわるいから、捨てなさいという事ではないです。
これが悩み、苦しみになるところに、見えないところで人間に加え続けている「霊性の圧迫」があるからなのだと思います。
これがなければ、動物のように欲しいものは戦ってとり、さっさと次の異性に乗り換え、ということができるのでしょう。
算命学でも「霊魂のない肉体は動物以下」となります。

そう考えると、大事なことは、我執を捨てることではなく、そこで葛藤することなのだろうと思えてきます。
葛藤する「そこ」とは我執のこともあれば、知的分別のこともあります。