思い通りにはいかない環境で育った貫索星は、ある種の頑固さを身に着けます。
それが信念になって、自分を保ちながらの人生が展開します。
この時に、人生の方向を間違えると、修正が効かずに一生そのままと書かれています。
主星貫索星の適環境で育てば、宿核霊魂の意志を受け継いで、間違いはないはずです。
ただ霊魂が直接人生を作るわけではないので、次からの環境の影響もあるでしょう。
間違える要素はたくさんあるのですが、何が間違いかは判定のしようがありません。
この判定(人生がまちがっているかいないか)は透念気を使うのが一番でしょう。
透念気は出来事を作っている神の意志を知るという感性の発揮です。
これを駆使することができれば、人間レベルですが、悟りに近づく極意だと思います。
透念気では、人間を離れないと、自分に都合のいい解釈をする危険があります。
人生は個々が作り出す時空間だとして、その延長線上で神を観ることは間違いです。
人生の主役は自分だと思っていると、自然の法則(真理)は歪むでしょう。
霊魂ー心ー神 という眼に見えない3つの連携が人生を作っていると思えるかどうか。
自分が主役でいる限り、この三種の神器は、自分に都合の良い道具になります。
といっても、自分が消えるわけではありません。「心」は自分です。
算命学は心を扱う思想なのですが、人間が主役になると都合のいい道具になります。
占いもそうですが、東洋思想を理解する時は、一度人間やめるのが一番だと思います。
人は幸福になるために生きている、という考え方からは東洋は見えてきません。
「倫理自然科学」というのはおそらく高尾先生の造語だろうと思います。
でも、これが算命学のすべてを表していると思えます。
”靑“流解釈ですが、倫理=人間社会の道理 自然=神 自然科学=神の道理 です。
なぜ、自然科学と倫理性が結合していったのか、ここに算命学の真意があります。
なぜ、「自然と人間社会」といわないのか。「神と人間」といわないのか、です。
天地人三歳思想では、天と地の間に人間がいるとなっています。
天と地を語ることが、結果的に人間を語ることになるのだと思います。
人間は天(神)と地(自然)との間に生まれた副産物なのだと思います。
主役は人間ではないのでしょう。
透念気は天の眼と地の心をもって、人生(人間)を眺めよってことだと理解しました。
人間(自分)が人生を作っていると思うと、都合の良い透念気になります。
この道でいいのかどうかは、常に目の前の出来事が教えてくれているのです。