青い算命学

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スピ算人生論-検証 主星司禄星の有名人④

小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である。
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴であるWikipedia

三島家(平岡家)は代々帝大卒のエリート家系。そこで期待の長男として生まれ(弟と妹がいる)大事に育てられました。家系図wikiにあったので、それを見ながら説明します。

司禄星を作る癸は月支初元にあって、これは偏父の干です。父はお役人で、82才没。
父は定太郎と夏子(なつ)の間に生まれた一人っ子です。その子供である公威(三島由紀夫)さんは、期待の星であったのですが、生来身体が弱く、この家系を牛耳っていた夏子さんの超過保護教育の元に育ちました。

公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた。
夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた。1930年1月、5歳の公威は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいく。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎泉鏡花などの夏子の好みは、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った<Wikipedia

三島さんには作家という一面とお国のために働きたいという青年将校としての一面と、正反対の気質が備わっていました。
祖母夏子さんの家系は作家の永井荷風と血のつながりがあって、遡ると、江戸幕府重臣を務めた永井尚志という人に行きつきます。「祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。また、永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される」とwikiにありましたが、父に埋め込まれたエリート意識と祖母夏子さんに伝わる国をまもる重臣の先祖の血と、この二つが三島さんの司禄星の底辺を流れていたのではと推測します。

三島さんは学習院初等科に入学します。これも、「大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた」とあります。ただ、当時の学習院は、時代が戦争へと傾斜する中、学問よりも右寄りの「硬派」たちが主流を占めていて、三島さんは、虚弱体質で色も青白かったために、ずいぶんいじめられたそうです。そんな時に、味方をしてくれて、学習院高等科を卒業するまで、14年間にわたり親友であった人に三谷信(実業家)という人がいました(『仮面の告白』の草野のモデル)。

丁と戊が共通干です。大半会縁があって、羅状律音も成立します。今のところ、霊魂縁は納音、天剋地冲、羅状律音、羅状納音の4つを優先します。いじめられていた学生時代、親友の存在は大きかったでしょう。

三島さんは文芸部に入り、学習院校内誌『輔仁会雑誌』に投稿し、主宰の先生や仲間からも才能を認められるようになりました。このあたり、月支本元の己(母系祖父)である漢学者の血が開花したようです。このとき、大先輩で三島さんの才能をいち早く見抜いていた人に、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民(国文学者・教育者)という人がいます。

天剋地冲と大半会で、領域図の形もよく、霊魂縁と見てもいいでしょう。干合変化もありますが、それほど大きな違いはありません。

こうして小説家としての才能は自他ともに認めるところとなり、文壇でも天才現ると噂されるほどになったのですが、時を同じうして、戦争が激化、三島さんも徴兵されることになりました。
家族は虚弱ゆえに、免除されると思っていたようですが、ギリギリ合格となって、戦地に赴くことになりました。この時に、「2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した」のです。

風邪で寝込んでいた母から移った気管支炎による眩暈や高熱の症状を出していた公威は、解熱剤を服用し一旦小康状態になったものの、入隊検査の折の丸裸の寒さでまた高熱となり、新米の軍医から肺浸潤(結核の三期の症状)と診断され即日帰郷となった(その後の東京の病院の精密検査で誤診だと分かる)

2月4日というのは、終戦の年、1945年です。この辺りも、霊魂の作用でしょうかね。母系の文学への霊魂が戦死を引き留めているようにも思えます。また、すでに亡くなられた祖母の夏子さんの正干(辛)が酉にあります。これも救っているのかもしれません。

ただ、これが実のところ、特攻隊のように死ぬことをイメージしていた三島さんの中で、不完全燃焼した青年将校としての死がずっとくすぶり続けることになったと思います。大運では地支蔵干が牽牛星1気、年運では運勢星が牽牛星です。名誉の戦士をイメージしやすく、しかし、結果害はそれを果たせないと訳せば、その通りでした。

これは後の名作「金閣寺」そのものでしょう。戦争で赤く燃え尽きる金閣寺を夢見ていた学僧が、燃え残った金閣寺に絶望して、自分が火をつけてしまう。後の三島さんの自死へとつながる伏線がここにあったように思います。

霊魂的な発想をすれば、国を守る父系のエリート官僚と文学的資質を継承する母系の才能とのせめぎあいが終戦時の三島さんの禍根の要因としてあるように思えます。

戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調し誇張した病状報告で答えた自身のこの時のアンビバレンスな感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返す。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなり、以降の彼に複雑な思い(常に死の観念を意識する死生観や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになるWikipedia

その想いに拍車をかけたのが、16才だった三島少年の文才を高く評価して、引き上げてくれた国文学者の蓮田善明さんが戦地で自決したことでした。蓮田さんは三島さんに、「日本のあとのことをおまえに託した」と言い遺したと記されています。

今回の三島さんの影響を受けた人物は概ね定説通りの相性を示していて、また領域図の形がいいことも特徴になっています。

戦後まもなくして、三島さんは大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになります。
そして、後世に残るベストセラー小説や戯曲を次々と上梓していきますが、役所勤めは一年で両立できなくなり、父の許しも出て、作家一本で生きるようになります。
中では『英霊の聲』、『憂国』といった右傾斜、戦後民主主義天皇を批判するような作品が世に出て、文と武の世界というベクトルが明確になって行きます。
やがて「楯の会」という「祖国防衛隊」を結成します。

1970年11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城すると、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。45歳没Wikipedia

運勢では、やはり影響の強かった「辛」父系祖母の夏子さんが登場しています。
決行年では日支比和があり、わが身が強くなります。そして、ここにも、夏子さんの辛があり、母の丁も支えています。

「司禄星の本質である蓄積の気は、不信の念が現われれば不信感が蓄積されます」という貴幼法の言葉があります。三島さんの司禄星には、女のように育てた祖母夏子さんへの強い不信感(恨みに近い)があったのではと想像したくなります。運勢干に「辛」が現れるたびに、埋め込まれた「女々しさ」を振り払うように「男らしさ」を演出するようになったのではと思います。
戦後という舞台に、自分を主役の青年将校としたドラマを脚本して、「自衛隊突撃の章」で自ら主演を務めて、反司禄星(祖母の恨み=自分のコンプレックス)を葬り去ったのではと思わずにはいられません。

その最終章で自決行動をともにした、縦の会の森田必勝さんとの相性を観てみます。

月干支の天剋地冲と干合があります。
霊魂相性の時の干合は男女和合ではなく、いわば霊魂主導で勝手に和合して虚気を呼び出すと考えています。
干合すると納音が成立して、二人がわずかに重なり合っている姿は、ともに自決で果てたシーンを思い起こさせるようで、、、、胸が熱くなります・・・